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はじめに

一人一人を丁寧に育てることの大切さ

創造主なる神様は生きて働かれるお方です。イエス·キリストが、私たちの罪のために十字架で死なれたことを信じて感謝するなら、新しいいのちが与えられます。そのいのちは、真理と喜びに満ち、「心の奥底から流れ出るようになる」(ヨハネ7章37節)ものです。私も救われた時にこの真理を授かり、私自身の心に、また人生に働かれる神様を体験し始めました。

 救われてまもなく、「この素晴らしい真理をすべての人に伝えたい!」という強い思いが与えられました。うまく神様や聖書のことを説明できたわけではありません。けれども、福音を伝えたい、周りの人にもこの真実を受け取ってほしいという一心な思いだけで、神様は私たちを愛しておられる、それゆえに私たちの罪を負うためにイエス·キリストが十字架で架けられた、というグッドニュースを周りの人すべてに伝えていました。力があるのは私ではなく御言葉です。福音を伝えると、実際救われていく人々が身の周りでも本当に多く起こされました。その当時、私の口癖は「人が救われていく瞬間を目の当たりにするのは、人生最大の喜びです!」でした。人の魂を救う神様の働きに圧倒されるばかりでした。

人生の旅、また信仰生活というレース

 けれども救われたはずの彼らが、教会へこなくなったり、聖書を学ぶ意欲をなくしたりして、次第に交わりから、また神様からも離れていきました。今では、本人達が当時イエス·キリストを信じる決断をしたことも覚えているかどうかわからないような状態が多々あります。そのような方々をあまりに多く目にしてきました。神様は私に「神様のことをもっと知りたい、神様に願われている者へと変えられたい」という思いを強く与えてくださっていたので、真理から離れていく彼らのことが全くといってよいほど理解できませんでした。しかし、ある時気づきました。救いを受け取り、永遠のいのちへの約束が与えられたことは本当に素晴らしいことだけれども、それはスタートにすぎないのです。そしてスタートをきっても、走り続けなければ、本物のゴールへとたどり着くことはできません。人生という、また信仰生活というレースは、一緒に走ってくれる人がいなければ、一人でそのレースを続けていくことは困難なのです。

個々へのケア

 信仰告白しても後々離れていく人たちは、必ずしも彼ら自身に落ち度があったからではないでしょう。新しい命を与えられて救われた人達は霊的な新生児とも言えます。赤ちゃんは、肉体的な成長のためにミルク、そして精神的な発達のために多くの愛とケアが必要です。霊的な赤ちゃんも同じです。いのちのパンである御言葉、そして霊的に大人であるクリスチャン達からの愛が必要です。神様としっかりつながることができなかった方々は、栄養を与えられず、また愛を受け取ることが出来ないまま孤児となってしまったような状態です。

 聖書は手元にあり、栄養はすぐそこにあります。教会へくれば、御言葉にもとづいた説教を聞くことができます。クリスチャン達は周りにいて、愛はそこにあります。けれども生まれたばかりの赤ちゃんに、そこに哺乳瓶があるから、勝手にミルクを飲みなさい、というような接し方で赤ちゃんは成長することができないことは誰が考えてもわかります。どれだけ愛に溢れた人が近くに立っていても、その人が赤ちゃんを抱き上げ、目を見つめ、個人的に言葉をかけなければその愛は受け取られないままです。

 これらの状態は、新しく生まれたクリスチャンの霊性について考える際、とても役にたちます。私たちが真剣に考えなければいけない課題は、「新生児(新しく生まれたクリスチャン)が、どのようにしたら霊的な栄養と愛を自分のものとしてしっかり受け取り、成長していくことができるのか」ということです。神様の憐み深い導きの中で、栄養そのものである御言葉が必要でしょう。御言葉を共に読む人が必要でしょう。聖書についてわからないことがあれば指し示してあげる人が必要でしょう。神様の家族が持つ愛の中で養われていくことが必要でしょう。教会というコミュニティーが必要でしょう。新生児であればあるほど、栄養そのものはもちろん、一つ一つのことを実際に手にとることができるための個人的なケアがより必要です。そのうち、聖書の読み方を覚え、一人で学ぶこともでき、自分で交わりへ向かうこともできます。けれども新生児の状態から成長していかなければ、放っておかれるかわいそうな霊的な孤児であるのと同様です。あの人は、クリスチャンになって教会に来ているから大丈夫だ、奉仕をがんばっているから良いクリスチャンとして生きている、と簡単に考えるのは間違っています。人間の大人として責任ある行動をしていたとしても、霊的には子供のままであることも珍しくありません。

キリストの似姿へと変えられる

 私自身、真理の光に照らされると、自分がどれほど罪人であるのか、またどれほど神様の力によって変えられるべき者なのかを日々確認させられています。そして、それらの弱さにも正直に向き合い、神様の御心に沿って歩むためにはどうすればよいのか聖書を通して学ばされています。神の願う「私」になるために、キリストの似姿へと変えられ、キリストを慕う弟子として成長し、キリストのように人々を愛し仕えていくことは、人生の召命だと思っています。自分の心のあり方、生き方が変えられる時、神様の御業を賛美します。それは、自分の力で得たことではなく、神様の働きによるからです。クリスチャンの人生とは、いのちの意味を知り、創造主なる主イエス·キリストが与えて下さる最大の祝福の中で生きることが出来る幸せな歩みです。またこの世の人生だけではなく、永遠に続く実りのために働かせて頂ける特権も与えられています。

 このような体験をもとに、冒頭で述べた私の口癖、「人が救われていく瞬間を目の当たりにするのは、人生最大の喜びです!」は変わりました。今では、「人がキリストにあって救いの力を体験し、変えられていくことを「共に」体験していくことこそが、最大の喜び」です。「共に」とは、私自身もその御霊による変革の中におらせて頂いているからです。成長はプロセスであり、日々キリスト者として生かされている恵みでもあります。

キリストの弟子を育てる

 現在私は、霊的成長とキリストの弟子造りを促す「セカンドレベル·ミニストリー」に従事させて頂いています。「セカンドレベル·ミニストリー」は、マタイ28章19−20節に見られる大宣教命令、そして第二テモテ2章2節にある信仰継承の姿に倣って、働きが進められています。救われた者達がキリストの弟子として成長し、その育てられた弟子達が、さらに新しい弟子を生み出すことができるように、とのビジョンを掲げています。私たちの働きは、キリストに救われた者として霊的に成長することの大切さを伝え、また、どのように他者の霊的成長のために関わって行けるのかを一緒に考え、お手伝いさせて頂くことです。日々、キリストの似姿に変えられて行くプロセスにおいて、「個人的な」また「意図的な」働きかけを大切にしています。

 一番具体的な働きとしては、キリストの弟子として成長すること、そしてさらなる弟子が生み出されることを念頭においた聖書の学びを提供することです。そのような学びがなされるためには、キリストの弟子造りに関して同じ重荷を持つ方々とコミュニケーションをとり、整える機会を提供して行くことが重要な鍵となっています。「メンターとして」主に仕える方々が、相手が必要な霊的成長のために、話を聞き、一緒に考え、共に学びながら、信仰の旅路を歩むお手伝いをさせて頂いています。また、それは、教会という体を建て上げていくために必要不可欠なことだと考えています。神は常に「共同体」に目を向けておられるので、私たちも信仰を個々のもののみとしてとどめるのではなく、キリストの体を建て上げる一つの部分として、神に願われている忠実な働きを真剣に追求していきたいものです。

 弟子造りについて学ばれたい方、これから自分の霊的成長のためにメンタリングを始めてみたい方、またメンターとして仕えていきたい方々の助けとなるべく、この働きに携わらさせて頂いています。これまで数百組のメンタリングを開始するお手伝いをさせて頂き、その過程を考察しながら得た体験談も含めながら、みなさんが「メンタリング」をどのように実践していけばよいのか、少しでもヒントを得ることができますなら幸いです。神様が、救われた者たちにどのような生き方を望んでおられるのか、聖書はキリストが私たちに残された「弟子としなさい」という大宣教命令を全うしていくために、どのような勧めを教えているのか一緒に学んでいきましょう。 

ポール真弓(セカンドレベル・ミニストリー総主事)

個人的な関係、また聖書的な共同体・教会形成に重荷を持つ。その過程において、メンタリングは鍵となると信じ、日々主の働きに従事。