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弟子造りの聖書的なモデル、そして日本人に有効的なアプローチ

弟子造りの聖書的なモデル1ー「個人的な関係」の中で弟子は造られる

キリストにある弟子造りとは、プログラムや聖書勉強のコース、テキストブックが主体ではありません。それらはあくまでもツール(手段)であり、信仰の模範となる人との「関係」の中で、霊的な実りと成長が育まれてきます。どれほどすぐれたリソースも、それ自体がキリストの弟子を生み出すのではなく、生きたキリストの弟子である模範が、さらなる弟子を生み出していくのです。「人がひとりでいるのはよくない。」(創世記2章18節)とは、神のお考えであり、周りの人々との関係を通して神は多くのことを語っておられます。

 私たちは救われてからキリストの似姿へと変えられて行く過程において、親しい人や苦手な人も含め、「人々との関係」が用いられます。愛することも、愛する相手がいなければ実践することができないでしょう。御言葉の知識を個人的に得ることはもちろん大切ですが、人との関係を通して、キリストにある者として生きる姿を御言葉どうりに実践する時、本当の意味で信仰を継承していくことへとつながっていくのです。

聖書の人物から学ぶことのできる、弟子造りの姿、メンターとメンティーの関係が多くあります。

モーセとジョシュア(民数記27章18−20節) 

サムエルーダビデ

エリヤとエリシャ(第一列王記19章19−21節)

ナオミとルツ(ルツ記全体)

エリサベツとマリヤ(ルカ1章30−36節)

イエス様と使徒達(マルコ3章14−15節)

バルナバとパウロ(使途行伝9章27、11:22ー26節)

バルナバとヨハネマルコ(使途行伝15章37–39節)

パウロとテモテ(第二テモテ2章2節2)

聖書の中で、霊的な指導者や導き手は「メンター」というタイトルを持ってはいませんでした。けれども、彼らが皆、個人的な関わりを大切にし、その生きた関係を通して、神と共に歩むことをまっすぐに指し示していたことは興味深いものです。私たちも聖書を通して、彼らが個人なメンティーへどのように霊的ガイダンスをもたらしていたのかを学ぶことができます。神様の素晴らしさを思い出させ、神様へ信頼することへの勧め、試練の中での対処、他者の扱い方、などメンティー達に対して、意図的な勧め、励まし、矯正などを明らかに促していました。メンティーたちは、個人的な霊的指導を受け、それぞれの状況において真理を適応させていました。

このように聖書を見ると、個人的な関係の中でキリストの弟子が効果的に造られていくことは明らかです。「メンタリング」「メンター」「メンティー」という用語はなじみにくかったとしても、先輩、後輩、その他の上下関係が重視される日本社会において、このような関係はとてもしっくりいくものではないでしょうか。模範となる人が、意識的にも無意識的にも、先に歩むべく道を指し示しています。学校でも職場でも、それらの道をまね、進んでいくことが期待される状況は日常茶飯事です。また日本人は、集団社会の中で、意見をはっきり持ったり、述べたりするのは難しい国民です。だからこそ、個人的な関係を通して心を開き、自分の思いをプロセスすることによって、明確にされていくものがたくさんあります。「個人的な関係」の重要性について、続けて吟味してみてください。  

弟子造りの聖書的なモデル2ー「愛の共同体」の中で弟子は造られる

また、弟子造りが本当に効果的になされていくには、真の信仰を持った者達が集まる共同体(コミュニティー)が必要です。それは本来、教会のあるべき姿です。神の霊が満ちている共同体には力があります。使途の働きを見ると、初代教会が、どのように集い、どのように共に生き、どのように神が働かれていたのかがよくわかります。

「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(2章41−47節)

「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有していた。」(4章32節)

「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」(5章41−42節)

「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。」(6章7節)

イエス様も、救われる人々が仲間に加えられること、愛し合う共同体の大切さを語っておられます。「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13章35節)教会は建物や組織ではなく、キリストの愛が満ち、キリストへの真の信仰、相手を愛によって建て上げていくべきところです。「メンタリング」や個人的な弟子訓練というのは、キリストの体を共同体として建て上げていく使命という大きな視野においてこそ有意義なものになっていきます。なぜなら、それが神の願いだからです。

 あるアメリカの宣教団体が弟子造りに関する統計を取りました。そのリサーチにおいて探し求めていたひとつの課題は、「大学では学生伝道や弟子訓練においてとても実を結んで来たのに、なぜ、社会に出てから弟子造りへの難しさを覚えているのか」ということでした。調査を行う前に、その理由として予測していたものは、社会において伝道する機会が減った、人々が人生の意味について求めていない、仕事が忙しい、等でした。けれども、驚いたことに、その答えは「弟子造りを共にする仲間の不足」、「弟子造りに焦点を当てるコミュニティーの欠如」だったのです。学生時代は、同じ重荷を持つ者達が、共に集まる機会に囲まれていることが多いようです。キャンパスでミニストリーをしているリーダー達に囲まれていることも珍しくありませんし、トレーニングや学びの機会も豊富です。そして、キャンパスにおける伝道の機会を通して仲間達と一緒に仕えていく、仲間達と一緒に証し、救われた者達にはすぐに弟子訓練を提供することができた環境に囲まれていたのです。もちろん、社会に出てからも主が素晴らしいコミュニティーを備えてくださることはありますが、キリストが持つ弟子造りへのビジョンに根付く「コミュニティー」が、共にキリストの弟子を育てていくために、どれほど重要なのかを考えさせられます。

日本人は特に、共同体、グループ、集団などを大切にします。聖書的な価値観が浸透する共同体が建設されるなら、どれほど力強い体として機能することでしょうか。ただ集まるだけではなく、個人的に真の愛と配慮を示す関係が体全体として促されていく時、共同体としても神様がもともと意図された真の愛によって結び合わされた姿であるのではないでしょうか。日本人は強い帰属意識を求め、またそれによって忠誠心が高まります。忠誠を尽くす、という態度は、道徳的な者と捉えられがちで、人としての美意識にも繋がってきます。そこから安定した自己価値が育まれ、他者へ、また所属する集団へ、献身することが当然とみなされます。キリストの体である教会も、集団です。聖書的な共同体の形成が、日本人の価値観に同調するようになされていくなら、どれほど力強い体として機能することでしょう。そのようなコミュニティー、また教会を求めるなら、それらを形成する「個」がまず健全であるために、メンタリングは鍵となるでしょう。


ポール真弓(セカンドレベル・ミニストリー総主事)

個人的な関係、また聖書的な共同体・教会形成に重荷を持つ。その過程において、メンタリングは鍵となると信じ、日々主の働きに従事。