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あなたもメンターになれるー「すべての人に」ではなく「誰かのために」

あなたもメンターになれます!相手の霊的成長を促したいという情熱とともに、主を愛し、隣人を愛するなら、永遠の価値がある「霊的成長」を促すことへその思いが反映されていくはずです。愛の実践が成されていくために、自分のことだけでなく他者への関心と意図的な働きかけを持とうする姿勢は基本条件です。相手の霊的成長のために、主にあって自分が果たすべき役割を吟味していくなら、あなたもメンターになれます。    

 一般社会でのメンターとは、若い社員がキャリアを伸ばすために提供するべき「ノウハウ」が必要です。社会経験も深く、よく仕事ができる人がメンターになるべきです。けれども、クリスチャンが霊的成長を目的としてメンタリングを行う時、相手の霊的成長に関心を持つなら、神がユニークに与えて下さった性格や人間関係を用いて、誰でも、普通の人がメンターとして仕えることができるのです。「弟子としなさい」というマタイ28章20節の大宣教命令は、牧師や宣教師、あるいはリーダー的存在のクリスチャンのみに与えられたものではありません。あなたもメンターになれます。そのままのあなたを必要としている人がいます。あなただからこそ、用いられる道があります。あなたにしか届くことのできない人がいます。

·信仰暦や年齢が若いですか?ー大丈夫です!

 信仰のステージ(P 参照)において、まだあなたが初歩の信仰段階にいるなら、メンターとして誰かに提供できるものは少ないと感じるかもしれません。けれども、あなたは、ほんの少しだけ前を歩いているだけでよいのです。誰かから学んだ真理を、そのまま分かち合うだけでも良いのです。自分が到達したところまで、相手の成長を助けたらよいのです。分からないことはわからないと答えることも大切ですし、あなたがいつも信仰深いクリスチャンだと相手に思わせる必要など全くありません。あなたが信仰にもとづいて捧げる時間とエネルギー、そしてメンティーを思いやる愛とは、語られる言葉以上のものです。

 「わたしはあなたのメンターです」と関係にタイトルをつける必要がないことも多々あります。信仰歴が若いなら、「非公式的なメンタリング」が自然かもしれません。それでも、相手の霊的成長のために働きかけれることはたくさんあるのです。自分自身がどのように神に導かれ、助けられてきたか、どのように神を体験させられているか、などの証は、大きな励ましを与えます。「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス·キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(第一コリント2章2−5節)神の力に拠り頼み、神のもとへ相手を導くように心がけていきましょう。

 ダビデを覚えてください。「サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」(第一サムエル記17章33節)このようにサウル王から忠告を受けても、「この戦いは主の戦いだ。」と、主の御名によって立ち向かいました。人からの判断や、人間的な目で見える限界にとらわれるのではなく、神の願いに応答することを優先しましょう。神はあなたを「キリストの使節」、また「祝福の源」として用いたいと願われています。

·学歴や経験がないですか?ー大丈夫です!

「私は牧師でないから」、「私は~でないから」、と学歴やクリスチャンとしての職歴や経験を気にしてしまうことが多々あるかもしれません。学校に行って知識をつけること、経験を通してキャリアを積むこと、トレーニングを通して整えられることはもちろん大切なことです。けれども、一番大切なことは、主を第一とする信仰ゆえ、自分の弱さも捧げて仕えていく姿勢です。預言者アモスも主に召された時、人目にうつる派手なものは何もありませんでした。職業的な預言者の仲間には属さない農夫でした。「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。ところが、主は群れを追っていた私をとり、主は私に仰せられた。『行って、私の民イスラエルに預言せよ。』(アモス書7章14−15節)

 「人は上辺を見るが、主は心を見る。」

信仰ゆえの従順を持って主に従う時、主ご自身が働かれるのを目の当たりにします。

·「不完全なわたし」ですか?ー大丈夫です!

この章の始めでも述べられたように、メンターがメンティーを成長させるのではなく、成長させて下さるのは神です。信仰歴が若いという状況と同様、あなたの弱さのうちにに働かれる主に信頼してお仕えしたらよいのです。「不完全なわたし」を通して、力強く働かれる主に期待しましょう。私たちは、土の器かもしれません。けれどもその不完全さ、もろさ、弱さを通して、主の栄光が現れます。たとえ知恵や経験があっても、自分の小ささを認めていなければ、いつのまにか自分が神になってしまい、「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊か に施すことのできる」(エペソ3章20節)神を忘れてしまいます。ですから、「自分の不完全さ」また「弱さ」を知っていることはとても大切です。無力な自分に対する恐れをゆだねましょう。

 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちからでたものでないことが明らかにされるためです。」(第二コリント4章7節)覚えていて下さい。主に信頼して求めるとき、「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神」(ヤコブ1章2−5節)が必ず働いて下さいます。どのように話そうかと心配するのではなく、あなたのうちに生きる御霊にお委ねして(マタイ10章19−20節)、主の呼びかけに答えていきましょう。自分の力でなんとかしようとする必要はありません。人の成長が神によって成されていると悟る時、メンターは自分への誇りや高ぶりの罪を避けることが出来ます。弱さを誇ってよいのです。

·敗北感でいっぱいの人生ですか?ー大丈夫です!

もしかするとあなたは、何かの失敗で敗北感を抱いていたり、悲しみや苦難の経験があるかもしれません。それらは、あなたを殻に綴じ込め、心の目をふさぎ、「おまえには何も出来ない」というサタンの声に耳を貸し続けているかもしれません。けれども、そのような道を通ったからこそ、あなたは人のために、そして神のために用いられるのです。あなたのこれまでの失敗や試練をも感謝しましょう。神はその時にもあなたと共におられました。そして、神こそがもたらして下さる解放と癒し、そして内なる勝利を、あなた自身がまず受け取りましょう。あなたはキリストにあって、新しくされ、すでに勝利を得ているのです。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(第一ペテロ5章8−11節)

 メンターとして仕えるとき、生きた神が働くそのような解放と癒しの経験が、力強い証と励ましを相手に与えます。それらの経験すべてを、益として下さる神がおられます。思い出したくもないような失敗をも、神の御前に差し出す時、神がそれらを良き物として下さいます。すでにメンタリングをもっている時、たとえあなた自身が失敗や苦難の経験をしたとしても、あなたがそれを通して神に委ねている姿勢、神ご自身、そして神がご用意されているものを求めている姿勢は、相手にも大きな気づきを与えます。また、相手に祈る心を与えます。メンターがメンティーに祈ってもらうことも、またメンティーが成長していくための道のりにあるのです。

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」(第二コリント1章4、5節)むしろ、弱さをはずかしがらずに示す人、罪と戦う人、常に学び続ける姿勢を持つ人というのは、良いメンターである証拠なのです。「主の前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(ヤコブ4章10節)

·「誰でも」と「誰に対しても」の違い

 あなたがメンターとして仕えようとする時、誰がメンティーになるか吟味します。その際、十分に注意を払うべきことは、「誰でも」メンターになれますが、「誰に対しても」メンターになれるわけではありません。主は、一人一人をユニークに創造されました。特に「信仰のステージ」(p 参照)という面において、もしあなたが「好奇心段階」にいるなら「宣教段階」にいるクリスチャンを助けるのは難しいでしょう。

 年齢も考慮するべき大きな要因です。いくら相手への霊的成長を助けたいと願っていても、20歳の人が60歳の人のためにメンターとなることは現実的に難しいでしょう。もちろん、相手に良い影響を与えることは可能でしょうが、自分がその時点で与えられ来た経験や知恵が、有効的に生かされるふさわしいメンティーがいるはずです。

 また、性格も賜物も、皆それぞれ豊かに与えられ、皆それぞれに生かすべき道が異なります。まず、「自分を知る」ことを心がけて見ましょう。上記に挙げられていた「メンターのタイプ」を参考にしてみると、あなたはどのようなメンターであるでしょうか。どのような人のために、そのタイプのメンターになることができるでしょうか。あなたは、Aさんのためにはライフメンターであるかもしれませんが、Bさんのためには非間接的メンターであるかもしれません。自分のメンターとしてのタイプを考慮すると共に、どのような相手に、どのようなアプローチが必要なのかも考えて見ましょう。

以下の質問を自分に投げかけてみて下さい。

·あなたは、どのようなメンターのタイプですか。(メンターのタイプ、参照)

·あなたの重荷や、喜びを持って無理なく接することができるアプローチ(方法)は、どのような形でしょうか。

·あなたの信仰歴、年齢、性格、などを考慮すると、どのような相手があなたのメンティーとなれるでしょうか。

·これまでに与えられた経験や賜物を用いて、どのように相手の必要を満たすことができるでしょうか。

·メンタリングを行うという事自体に関して、時間やエネルギーをどのように割くことができるでしょか。

あなたもメンターになれます!あなたをメンターとして必要としている人がいます!けれども、どのような人に対して、また、どのように自分の賜物が生かされる形でメンターとなるべきかは、主に祈り求めながら吟味して下さい。不完全さの中に働かれる主を覚えて仕えていきましょう。

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちからでたものでないことが明らかにされるためです。」(第二コリント4章7節)

ポール真弓(セカンドレベル・ミニストリー総主事)

個人的な関係、また聖書的な共同体・教会形成に重荷を持つ。その過程において、メンタリングは鍵となると信じ、日々主の働きに従事。