8月 4, 2011

罪とは

1:「罪」とは

「罪」と聞くと、何か悪い行いをさすように聞こえます。聖書でいう「罪」とは犯罪のような行いだけのことではありません。英語では「罪」は sin、「犯罪」は crime、と違いがありますが、日本語でこの「罪」の概念を理解するには少し考えなければなりません。

「犯罪」というのは、泥棒、詐欺、殺人、など法律に関わる罪の行いですが、聖書でいわれる「罪」とは違ったものです。

聖書でいう「罪」とは、神様の完全な正しさや聖さから外れていることです。「罪」という言葉の語源には、まとはずれ、という意味があります。神様の絶対的な正しさの基準 −的— から外れている状態が罪なのです。悪い行いも罪の中に含まれますが、行いだけではなく、神から離れている状態にいる事自体が罪なのです。そのような状態にいるからこそ、罪を犯して当然なのです。そして、その人間の罪深い性質のために、世界はありとあらゆる罪であふれています。

2:「罪人」とは

ローマ書3章10節からを見てみましょう。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷いでて、みな、ともに無益な者となった。善を行う者はひとりもいない。」(10−12節)

「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(18節)

「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受ける事ができず、」(23節)

 

人間は本来、神様に喜ばれる者として造られましたが、罪が世界に入り(アダムとイブの話—創世記2:9—3:24)、神から離れた者となってしまいました。「すべてのひと」には、あなたも含まれます。すべての人間は生まれながらにして罪人なのです。

あなたは罪人です、といわれて良い気がする人はまずいないでしょう。ですが、罪という性質の中心は神様から離れている事、神様を無視する事、自分には関係ないという無関心も含まれます。悪い事をしてから罪人になるのではなく、私達はみな、罪人だからこそ、罪深い行いをしたり罪深い考えを持つのです。

 

3:罪への自覚

主に3つの方法によって、誰でも罪の自覚がでてくるでしょう。

1:自分は罪人だ、と素直に認めるのは難しいかもしれません。実際、罪に対しての自覚がもてるのならば、その人の心には神様がすでに働いているのです。

(ヨハネ16:7−11)

2:法律やその他の決まり事、聖書では律法と言われますが、それらの善悪の基準から善に反する事をするとき、悪い事をしたと知る事ができるでしょう。(ローマ7:7)

3:もちろん、人間は良心というものが与えられているので、善悪の基準も自分自身の良心から判断することが多々あります。(ローマ2:15)

 

もし何か、悪い事をしたとき、自分の良心ゆえ、あの行いは間違いだった、と自然に思える時があります。日本では性善説(生まれながらにして人間は清い)と言われる考え方の文化なので、その中で育った私達は必然的に罪への意識が薄いものです。人間は清く正しい存在だが、社会にでることによって悪いものがつくので、おはらいや手を洗う事によって身を清めてもらう、というような習慣もあります。しかし、そんなに簡単に悪いものが取り去られるのでしょうか? 本当の私達の姿を深くみるとき、生まれた時から清い者なのでしょうか?

うそをついたことのない人はいますか?

誰かをねたんだり羨んだりしたことのない人はいますか?

ものをとったことはありませんか?

殺人とまではいかなくても、

これらのレベルでも悪い事は「罪」だと思いませんか?

 

小さい罪をひとつもっているだけでも、「罪人」とされるのです。また、良い事、正しいこと、するべき事がわかっていながら、それらをしないことも罪です。

誰かが助けが必要なのに目をつぶっていたことはありませんか? あなたはいつも正しいことを行い続けることができる善人ですか?

私達は神から180度離れたところ、罪の状態の中にいます。ですから、どんな人でも悪い事を考えたり行ったりして当然なのです。

私達はみな罪人です、と聖書が言っている言葉に耳を傾けてみましょう。新しい人生の歩みのために、自分の弱さや嫌な部分が変えられていくためには、本当の私達の姿を見つめなければいけません。もしかすると、自分が気づかなかった傷や罪が明らかになり、つらい想いにかられるかもしれません。しかし、聖書の中には必ずいつも希望があります! 次に続くセクション、「キリストの十字架とは」「救いとは」では、罪の解決について学びます。自分自身を素直にみつめながら、心を開いて見てみましょう。

 

~ローマ書 6章23節

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、

私達の主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

参考資料

ローマの道